退職の意思表示_大隈鐵工所事件

 退職(労働契約の終了)と一言で表現される事象には、労働者と使用者が合意することによって労働契約を将来に向けて解約する法律行為と、労働者による一方的な労働契約の解約である「辞職」及び使用者からの一方的な労働契約の解約である「解雇」の3つの態様が含まれています。

 「退職届」又は「退職願」が労働者から使用者に提出された場合、これが、一般に「退職届」は「辞職の意思表示」、「退職願」は合意解約を求める労働者からの「申出」との解釈ができそうですが、「辞職の意思表示」なのか、「合意解約を求める労働者からの申出」なのかは、労働者自身がどのような趣旨で「退職届」を提出したのかによって判定せざるを得ないのです。実務では、我が国の労使関係を考慮して「合意解約の申出」と解釈されることが一般的です。

 そこで、「退職届」又は「退職願」を提出した労働者が申出を撤回したとき、どのような問題が生じるか、大隈鐵鋼事件(最高裁昭和62年9月18日判決)を採り上げ、検討を加えます。


1.事案の概要

 Xは、大学卒業後、昭和47年(1972年)4月、Y社に入社しました。入社後、Xは社内において同期入社のAとともに、日本民主青年同盟(民青)の活動を行っていました。ところが、同年9月24日にAが会社の寮に戻らず、行方不明となりました(同月29日午後に行方が判明、翌30日帰宅)。

 翌25日、人事部の調査によって、A失踪の当日XがA宅を訪問した事実が判明し、また、寮にあるAの部屋からXの氏名が記載されたノートが、また、A周辺から民青活動の資料等が発見されました。そのため、Xは25日及び26日会社の人事担当者等からAの失踪に関する事情聴取を受けていましたが、Aの失踪に関して心当たりはなく、民青活動に関することは何も話しませんでした。

 翌27日、B人事部長らは、Xに対し、Aとの交友関係につき隠し事はなくAの失踪とは無関係であること、A宅訪問を当初否認したこと、Aの父親に対し口裏合わせの工作電話を試みたことは懲戒に値するものでこれを甘受すること、以上の内容に偽りがあった場合は処分を受ける前に潔く自分から身を引くといった内容の「詫び書」を書かせ、これを受取りました。

 翌28日、B人事部長は、会社応接室にXを呼んで、A周辺から発見された民青活動の資料を机の上に置きながら、「この記事の中からA君の手掛かりが出てこないか、君一つ見てくれないか」と述べたところ、Xは、上記資料に手を触れないまま茫然自失の状態で暫時沈黙していたが、突然「私は退職します。私はA君の失踪と全然関係ありません」と申し出ました。B部長は、民青同盟員であることを理由に退職する必要はない旨を告げてXを慰留しましたが、Xがこれを聞き入れなかったため、退職願の用紙をXに交付したところ、Xはその場で必要事項を記入して署名拇印した上、これをB部長に提出し、B部長はこれを受領しました。

 翌29日朝、Xは前日の退職届を撤回する旨申し出ましたが、会社はその申出をを拒絶、そこで、Xが従業員としての地位確認を求めて提訴したものです。

 第1審は、退職の意思表示には動機の錯誤があるとして、法律行為の無効の主張を認めました。第2審の名古屋高裁では、錯誤を否定しましたが、退職辞令書の交付など明示的な解約承諾の意思表示がないこと、Xの入社の際の採用手続きとの対比で、B部長による退職願の受理を解約の申出に対する承諾と解することはできないとして、Xによる退職の意思表示の撤回を認める判決を下していました。そこで、Yがこれを不服として上告したものです。


2.解 説

(1)判決要旨

 破棄差戻し。

①「私企業における労働者からの雇用契約の合意解約申込に対する使用者の承諾の意思表示は、就業規則等に特段の定めがない限り、辞令書の交付等一定の方式によらなければならないというものではない。」

②「労働者の退職願に対する承認は(採用の場合)とは異なり、採用後の当該労働者の能力、人物、実績等について掌握し得る立場にある人事部長に退職承認についての利害得失を判断させ、単独でこれを決定する権限を与えるとすることも、経験則上何ら不合理なことではないから、退職願の承認について人事部長の意思のみによってY社の意思が形成されたと解することはできないとした原審の認定判断は、経験則に反するものというほかない。」

③「B部長にXの退職願に対する退職承認の決定権があるならば、原審の確定した前記事実関係のもとにおいては、B部長がXの退職願を受理したことをもって本件雇用契約の解約申込に対するY社の即時承諾の意思表示がされたものというべく、これによって本件雇用契約の合意解約が成立したものと解するのがむしろ当然である。」

(2)論点の整理

 本件で明らかになった論点は、次の3点に集約されてきます。

(ⅰ)本件Xの意思表示を「辞職の意思表示」とみるか、「合意解約を求める労働者からの申出」とみるのか。
 本件Xの意思表示について、高裁は、Xは「Y社の承認があれば、即時に雇用関係から離脱したいと考えて」いたとして、「合意解約の申入れ」と評価しています。これは、「辞職」は一方的解約通告の意思表示であって、相手方への到達後は原則として撤回できないと解されるので、その認定は慎重に行うべきであり、労働者の意思が明らかに辞職であると解される場合を除き、「合意解約の申込み」と解すべきという判例の一般的傾向がありますが、本判決もその線にそったものといえます。

(ⅱ)本件Xの意思表示に瑕疵があったか、否か。
 本事案の第1審及び控訴審では、Xの意思表示に錯誤があり、解約の申込みは無効ではないかという点が争点になりました。意思表示の瑕疵の問題は、民法総則93条(心裡留保)から96条(詐欺又は脅迫)に詳細が規定されている事柄に関することです。  

(ⅲ)本件Xの意思表示の撤回はいかなる場合に可能なのか。
 (ⅰ)で述べたように原則的に「合意解約の申込み」と解すべきであるならば、「これに対して使用者が承諾の意思表示をし、雇用契約終了の効果が発生するまでは、使用者に不測の損害を与える等信義に反すると認められるような特段の事情がない限り、被用者は自由にこれを撤回することができる」とするのが一般に判例の考え方とされています。

 そのような枠組みの中では、使用者による承諾があったか否かが、決定的な意味を持つことになります。(1)判決要旨①は、承諾の意思表示が口頭であってもかまわないという趣旨であり、③で人事部長の退職願の受理をもってY社の合意解約の承諾の意思表示と認定し、合意解約の成立したものと解するのが当然であると結論付けています。

(心裡留保)
第93条 意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。

(虚偽表示)
第94条 相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。
2 前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。


(錯誤)
第95条 意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。


(詐欺又は強迫)
第96条 詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。
2 相手方に対する意思表示について第三者が詐欺を行った場合においては、相手方がその事実を知っていたときに限り、その意思表示を取り消すことができる。
3 前2項の規定による詐欺による意思表示の取消しは、善意の第三者に対抗することができない。

 

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