リストラなしの「年輪経営」について_その3

1.「協調力」と「注意力」を重視する経営

 伊那食品工業 代表取締役会長の塚越寛氏によれば、「経営は、いかにしてみんなの結束力を高めるかというゲーム」なのだそうです。「役員も、社員も、パートさんも、さらには取引先の方々も含めて、みんなのパワーを結束させて、一つの方向に向けさせることが経営者の務めだと思います。」と言っておられます。ここから、風通しの良い、意思の疎通が十分に行われている組織作りを重視し、「協調心」を力を結集するために不可欠のものとして重視しておられるのです。

 このような考え方から、効率だけを追い求める立場からの在宅勤務の導入及び分社化には、反対の立場を明確にされています。

 必然的に、採用においても最も重視するのは「協調力」ということになります。塚越会長は、協調力を「周りを思いやる気持ち、支え合おうという精神」と定義されます。このような気配りができる人間は、当然「日常の注意力が高いはず」ということが言えます。ところで、机上で学んだ知識は、そのままでは仕事に役に立つことはあまりありません。しかし、知識と経験が一緒になって発酵すると仕事で役に立つ「知恵」に昇華します。「同じ経験をしても、注意力がある人は、多くの知恵」を得ることができるはずなのです。

 塚越氏が成果主義を全く認めなかったのは、このあたりの考え方にあります。つまり、成果主義は、畢竟、努力も能力も見ず、結果を評価するだけです。これでは、周りを思いやる気持ち、会社全体のことを思う気持ちは育まれないので、「協調力」も「注意力」も高まらないのは自明のことだからです。

 さらに、「協調力」→「注意力」の文脈から“serendipity”という聞きなれない英単語に言及されていて、この言葉の意味するところは、「当てにしていなかった物を偶然に見つけ出す能力、いわば『掘り出し上手』」ということです。「開発能力の核心をついていると思い、大切にして」おられるそうです。研究開発部門に限らず、全ての「社員一人一人が“serendipity”を発揮することができれば、会社は宝の山」になるはずですが、“serendipity”を発揮することに繋がるのは、周りのことを思いやる「協調力」であり、その中で小さなことに気付く「注意力」であると塚越会長は考えておられるのです。


2.運命共同体論を再構築するには

 3回にわたり、伊那食品工業の塚越寛会長が上梓された経営書「年輪経営」を見てきましたが、示唆に富む内容で大いに参考になることが書いてあると思っています。

 小生自身、以前から、一般的な日本の会社は成果主義など導入すべきではなく、運命共同体的な性格は全否定されるべきではないというようなことを漠然と考えていたのですが、近年そのような傾向を強めてきております。

 そもそも我が国は、稲作農業主体の血縁・地縁で結ばれた共同体的社会、いわゆるムラ社会が長い間続いていたわけで、その伝統と文化は、あらゆる組織を形成する場合にも色濃く反映されてしかるべきでした。共同体的組織(Gemainschaft)とは、血縁・地縁をもとに自然発生的に成立した組織であり、そこには、「理念」なり、「行動指針」などといったことを改めて持ち出すまでもなく、「常識」的な行動指針なり、倫理観があったはずです。すなわち、やるべきことは少しでも多くの収穫を得て構成員全員を食わせることに決まっているわけですから、田植えの時期や稲刈りの時期に協調しないで山菜狩りに出かけることは許されるわけがないですし、リストラ(=村八分)は、その者にとっては飢餓に直結しますし、共同体にとっては労働力の喪失につながりますから、軽々には行ってはならない最後の手段であったはずです。

 そういう伝統と文化に根ざした意識が、欧米の文化では典型的な目的的組織(Gesellscaft)であるはずの株式会社を形成する際にも色濃く反映されてきたのはごく自然なことだったのだろうと想像できるのです。ここでは、「解雇権濫用法理」などは、あたりまえ、常識の範疇でしょうし、戦前はそうではなかったということを強調する意見もありますが、「年功序列」や「長期雇用」も伝統と文化に親和性の高い仕組みだったと言えます。

 敗戦後、欧米流の「個人主義」が強調され、米国式民主主義や経営がいくら流入してきても、「飢餓状態からの脱出」ないしは「物質的な豊かさ追求」など目に見える目標がある時代には、逆説的ですが、日本人は共同体的組織の組織人であることを完全には捨てることはなかったように思います。

 ところが、バブル経済前後の物質的豊かさを極めた頃から、様相は変化し始めます。共同体的組織においては、常識としてその組織の目標を何とはなしに把握しているものなのですが、物質的な豊かさの達成及びその後のバブルの崩壊を経て、日本の会社はこの期に及んで共同体としての「常識」を喪失してしまい、その結果、経営は村八分をあたりまえのこととし、その反動として、従業員は個人主義と保身に走るようになります。

 このような状態を救済する手段は、成果主義などであるはずはなく、伝統と文化に根付いた組織の再構築の中にこそそれがあると小生は考えるようになりました。そして、誰の目にも明らかな物質的な目標が喪失した現代において、組織の構成員がもち得る目標とは何かと言えば、それは良く生きるということ、言い換えれば「人生には意味がある」という概念です。そして、「人生の意味」は実は「外部」にあるということです。つまり、人生の意味は個人主義で達成されるようなものでは決してなく、常に周囲の人との関係の中から生まれるということです。つまり、個人主義とは対極のところに人生の意味が存在するということです。であるとすれば、人生の意味を見いだせる最も手近な場所として共同体の意義をもう一度全ての構成員が認識しなおすことで、我が国固有の伝統と文化に根ざした組織の再構築ができるのではないでしょうか。

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