メンタルヘルス私論

1.メンタルヘルス=精神衛生?

10人に1人は鬱病に罹患するするといわれている現代社会では、企業経営という観点からもメンタルヘルス対策が急務になってきているといわれています。実際、平成10年(1998年)以来年間で3万人余の方が毎年自殺で亡くなっているという事実は、看過できるものではありません。年間3万人の自殺者をだすということは、自殺率で露西亜に次ぐ世界第2位のという不名誉な記録を不動なものにしつつあるということでもあります。勿論、自殺者の方全員が業務に起因する心の不調で自殺に至ったというわけではありませんが、我が国の場合、働き盛りの男性が自ら命を絶つ事例が多いのが特徴になっています。

そこで、企業においては、最悪の場合従業員の自殺につながるような鬱病などの対策、心の健康の問題が強く意識されるようになってきており、我々のような社会保険労務士も人事・労務の専門家として、この問題に取り組んでいかなければならないということで、メンタルヘルスに関する研修会や研究会が盛んに行われているのが現状です。

ただ、人事・労務における、ひいては経営における従業員の心の健康管理の問題をメンタルヘルスという訳のわからない片仮名英語で上滑りの議論をしていくことについて、例によって小生は気に食わないのです。「精神衛生」とか、「心療衛生」といった既にあり、日本語になじんでいる言葉にそういった「経営上の従業員の心の健康管理の問題」という新たな概念を付け加えればいいだけのことで、なぜ意味の曖昧な外来語にこれほど依存しなければならないのか、小生などは日本人として恥ずかしくなるのです。ついでにいえば、すっかり日本語になった感じもするストレスですが「心的負荷」(「気苦労」でもよいかと思います)と言い換えることができますが、心的負荷だと「ストレス社会」という使い方ができなくなるのが問題なのかもしれません。しかし、そう何でもかんでも標語に置き換える必要があるのかということも考えてみる必要があります。ストレス社会といわれて、即座に何のことだか的確に説明できる人が一体何人おられるでしょうか。


2.個人の問題か会社の問題か

というわけで、従業員の心の健康管理の問題ですが、考えてみれば個人の心の中の問題などは、病もひっくるめて個人の問題です。これに関してどの程度会社が関与できるのかということはよくよく考えてみなければなりません。小生は、極論ですが職場の精神衛生増進で会社にできることと言えば、朝と帰りの挨拶を従業員に奨励するとか、事務作業で坐りっぱなしの職場で一斉ラジオ体操を行って身体をほぐすことにする程度のことではないかと思っています。

とはいえ、変化が激しく、かつ、合理化の名の下に人員が削減されたため、長時間労働も少なくない今日、鬱病など心の不調を罹患する従業員が増えていることは明らかです。従って、メンタルヘルス対策として、就業規則を整えたり、会社が管理職を始めとする従業員にメンタルヘルスに関する研修を行ったり、専門の担当者や産業医の相談・支援体制を整えたりすることは、意味のあることだと思います。特に、今日従業員の中に鬱病などの心の不調になる人が現れることを前提に就業規則を見直しておくことは、急務であると思います。

しかし、そうであったとしても、従業員の心の健康の問題は、個人の問題なのか、会社の問題なのかということを従業員の精神衛生を考える前提としてじっくり考えておかなければならないだろうと思うのです。そもそも会社という組織は、その仕組みが生まれた欧米流の社会学の考え方では、ゲゼルシャフト(Gesellschaft)と呼ばれる利害関係に基づいて結合した人為的な社会の代表とされています。これに対して地縁や血縁、友情で深く結びついた伝統的社会形態をゲマインシャフト(Gemeinschaft)といい、人類社会は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと変遷していくというのが、ドイツの社会学者テンニースの唱えた社会学の理論です。

だとすれば、会社の目的は、それが資金提供者のためか全ての利害関係人のためかはさておき、とにかく利益を出すこと、会社が何を行い何を行わないかの経営判断の基準は、それが収益を拡大するか、経費を引き下げることのいずれかに繋がるか否かということに尽きるのです。従業員の精神衛生対策を行う第一義的な動機も、例外ではありません。従業員一人が鬱病を罹患した場合の費用がいくらで、会社が被る損失はこういう場合はいくらで、といった現金な話が必ずと言ってよいほどメンタルヘルスの研修などの枕詞として語られる傾向にあるのは、そのためだと思われます。

更に、話をややこしくしているのは、我が国の場合、伝統的な家制度の残滓が色濃く残っていて、本来ゲゼルシャフトであるはずの会社に対してもゲマインシャフトに抱くような感情を経営者も従業員も多かれ少なかれ持っているのではないかということです。自分の所属する会社を「うち」、「うちの会社」などと表現するのは、その潜在意識の端的な表れだと小生などは思っているのです。


3.精神衛生対策を有効にするために

以上のようなことを踏まえて、今日提唱されているメンタルヘルス対策をかんがみると一つの矛盾に行きつきます。つまり、心の不調に陥った従業員は、会社に対して救いを求めることもあるでしょうし、さらに蓋然性の高い意識としては仲間に迷惑をかけたくないということになるのだろうと思います。ところが、会社の方は、究極の目的が利益を上げることである以上、このような精神衛生不調者が家族や仲間と思えているうちは救いの手を差し伸べますが、それよりは、短絡的にいかにして損失を最小限にするかという方向に向かいやすい体質を本質的に内蔵して持っています。たとえば、心の不調を自覚した従業員が、会社が準備したメンタルヘルスの仕組みがあるからと言って、進んで利用を申し出、上司や人事部の専門の相談員に相談に行くかと言えば、たとい秘密は厳守だということになっていたとしても、小生などは常識的に考えてそれ程上手くは稼働しないものだろうなと思ってしまうのです。

原則論で割り切ったときの一つの結論は、「個人の心の問題は会社で解決するものではないよ」ということで、米国の大統領候補などが良く口にする“Family Value”などという言葉は、おそらくは、会社は所詮利益を追求する手段と割り切っていることを前提に、人間性を取り戻す場所として家庭、家族の価値が大切なのだということを言いたいのだろうと思います。

しかし、会社が疑似家族のような側面をも未だに残している我が国では、敢えてこんな割り切り方をする必要はないと思います。今我が国の会社の中で起きていることの本質は、我が国が近代化して以来続けてきた葛藤、すなわち、伝統的な家族意識や社会に対する価値観と個人主義的価値観のせめぎあいの延長線上にあるといってもよい、意外と古い問題なのだと思うのです。

ところで、戦後の義務教育の中でかつてなく強調されていることの一つは、「自分のためになるから」という言葉です。「自分のためになるから、勉強しなさい。」、「自分のためになるから、他人に親切にしなさい。」、「自分のためになるから、本をたくさん読みなさい。」といった感じでしょうか。純粋な個人主義の発現とも言える言葉です。

精神衛生対策を有効に機能させる秘訣は、意外に単純だと考えます。それは、経営者を始め管理職の人間の器の問題だからです。そして、人間の器を大きくするこつは、直ちに「自分のためになるか」という判断基準を捨て去ることです。これから、管理職に昇進する人は、多種多様な価値観を持っていて結構なのですが、少なくとも「自分のためになるか」という判断基準を1番にはもってこないという条件にかなう人でなければなりません。そういう人でなければ、会社の利益は究極的には他人に何らかの貢献をした結果もたらされ、その他人の中には広い意味で精神衛生の不調に陥る従業員も含まれていることを理解した上で行動することが、全く期待できないからです。

個人主義的な教育を受けてきた我々の世代は、無意識のうちに「自分のためになるか」ということを考えて行動してしまう性癖が、残念ながら染み付いているのではないでしょうか。だからこそ、意識的にこの考えは捨て去らなければならないと思うのです。そう考えると、次世代を担う子供たちには、「自分のためになるか」という個人主義の判断基準の代わりに「家族のためになるか」、「親や友達が喜んでくれるか」、「学校が名誉に思ってくれるか」などの他人のためになるか否かという判断基準教えていかなければなりません。さもなくば、自殺率世界第2位という不名誉な記録は、次世代にも引き継がれてしまう可能性が著しく高いと言わざるを得ないからです。

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