大災害と厚生労働行政の緊急対応

 今年も残すは、あと2箇月余りとなりました。何といっても、内外で災害の多い年という印象が拭えない1年になりそうです。東北関東大震災のような大災害時に、厚生労働行政はどのような緊急措置を取ったのか、復習の意味でまとめておきたいと思います。


1.労働保険関係

(1)労災保険給付の請求について、労災給付請求書における事業主証明を受けられない場合、緊急措置として事業主証明がなくても受け付けることとし、診療担当者の証明が受けられない場合も同様としました。この場合には、請求書の事業主証明欄及び診療担当者証明欄には本人が記載し、証明を受けられない事情を記入すればよいとされました。

 また、遺族(補償)年金など死亡を支給事由とする給付について、震災で行方不明になった人の生死が3箇月間分からない場合又は3箇月以内に死亡が確認できたものの死亡の時期が特定できない場合には、震災の発生日に死亡したものとみなして遺族(補償)年金などが支給されることとなりました。船舶又は飛行機事故における死亡推定の考え方の準用です。

(2)被災地における労災認定のための資料が散逸している場合には、代替資料(社員証、源泉徴収票、賃金明細書等)で代用し、それもない場合には、可能な範囲で関係者から聴取を行い判断してよいことになりました。調査事項は、事業主、請求人、同僚労働者、取引会社の労働者等のいずれかから聴取してもよいこととされました。

(3)労災認定における業務上外の考え方は、平成7年1月30日付け事務連絡「兵庫県南部地震における業務上外等の考え方について」に基づいて、「被災労働者が、作業方法、作業環境、事業場施設の状況等からみて危機環境下にあることにより被災したものと認められる場合には、業務上の災害として取り扱」うとしています。

 つまり、単に地震で被災したような場合は業務起因性が否定されますが、そもそも一定の危険な状態が存在したと考えられる場合には業務起因性が認められると判断を下すというものであり、例えば、作業場において当該建物に構造上の脆弱性が認められた建物が倒壊したためや事務所が土砂崩れにより埋没するなどの災害、バスの運転手が崖沿いの路線を走行中に受けた落石による災害、通勤途上において列車利用中に列車が打線したことによる災害などが、業務災害又は通勤災害として認められるとされております。

(4)青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、千葉県、新潟県及び長野県の災害救助法適用地域に所在する事業所の事業主が、被災に伴う経済上の理由で雇用調整助成金中小企業緊急雇用安定助成金を利用する場合、特例で、支給要件を本来の3箇月から「最近1箇月の生産量、売上高等がその直前1箇月又は前年同期に比べ5%以上減少していること」に緩和しました。さらに、一定期間中は震災後1箇月間の生産量、売上高等が減少する見込みの場合でも助成の対象となることとされました。また、計画届についても、一定期間中は提出されれば、事前に届けられたものとみなされるとされました。(上記の地域に所在する事業所等と一定規模以上の経済的関係を有する事業所の事業主、又は、計画停電により事業活動が縮小した事業所の事業主にも、計画届の事後提出措置を除く支給要件の緩和措置の適用が認められました。)

 被災地域の事業主及びその事業主と一定規模以上に経済的関係があると認められる事業主を対象に、①これまでの支給日数にかかわりなく、平成23年3月11日から24年3月10日までに開始した休業について、最長300日まで助成金の対象とし、②雇用保険の被保険者期間が6箇月未満の人も本助成金の対象とする暫定措置を実施することになりました。

(5)地震の直接的な被害を受けたために事業活動が停止した被災地域の中小企業で、再開する見込みや賃金支払い能力がなく、労働者が退職を余儀なくされた場合、未払い賃金の立替払いについて、申請に必要な添付書類が入手できないとき、地方公共団体が発行する罹災証明書等で代替できることになりました。

(6)①失業給付を受給中の人が、災害のため指定された失業認定日に職業安定所にに出向くことができない場合には、電話などで日程変更ができることになりました。②失業給付の受給手続きについて、避難などで居住地を管轄する職業安定所に出向くことができない場合には、来所可能な安定所で受け付けてよいことになりました。

 また、激甚災害法が適用されたことにより、事業所が災害で休止し、休業を余儀なくされて賃金を受けられなくなっている人、及び、災害救助法の指定地域(特定被災区域)にある事業所が災害で休止し、一時的に離職を余儀なくされた人も、雇用保険に6箇月以上加入していることなどの要件を満たせば、失業給付が受けられることになっています。

 さらに、災害救助法の指定地域(特定被災区域)の事業所で働いていた人で、震災で失業又は休業状態を余儀なくされた場合に受給できる雇用保険の基本手当については、現在の60日分個別延長給付に加えて、追加の60日分の個別延長給付が受けられることになりました。

(7)震災時に適用事業所の所在が特定被災区域にあり、震災被害で賃金の支払いに著しい支障などが生じている場合、最長で平成23年3月から24年2月まで労働保険料等が免除されることになりました。

労働保険における特例措置



2.健康保険関係

(1)被災した被保険者が保険証を提示できなくても診療を受けられることとし、保険証を紛失した場合には、氏名、生年月日、事業所名(被用者保険の被保険者の場合)、住所を申し出れば受診できることになりました。

(2)保険者の判断に依り、一部負担金の減免及び徴収猶予並びに保険料の減免及び納付期限の延長などができることになりました。この際、国は保険者の財政状況に応じて財政支援を行うことになりました。

(3)被災地域に所在する事業所で、震災により賃金に著しい変動があった場合、賃金に変動の生じた月から標準報酬月額を改定することができるものしました。


3.年金関係

(1)青森県、岩手県、宮城県、福島県及び茨城県に所在地を有する事業所を対象に、厚生年金保険料、協会けんぽ健康保険料、船員保険料及び子供手当に係る拠出金の納期限を延長する措置を実施しました。

 また、対象地域でない事業所でも、事業主が、保険金及び損害賠償を除く全財産の概ね20%以上を損失した場合、災害発生日以降に納期が到来する保険料等の納付を1年以内に限り猶予することになりました。

 さらに、被災地域に所在する事業所で、被保険者に対する賃金の支払いに著しい支障などが生じている場合、厚生年金保険料が免除されることになりました。

(2)国民年金の保険料については、被保険者、世帯主、配偶者又は被保険者、世帯主若しくは配偶者の属する世帯の他の世帯員の所有に係る財産の概ね2分の1以上の被害金額(保険金及び損害賠償控除後)に相当する損害があった場合には、免除措置が受けられることになりました。

(3)被災地域に所在する事業所で、震災により賃金に著しい変動があった場合、賃金に変動の生じた月から標準報酬月額を改定することができるものしました。

(4)遺族基礎年金について、震災で行方不明になった人の生死が3箇月間分からない場合又は3箇月以内に死亡が確認できたものの死亡の時期が特定できない場合には、震災の発生日に死亡したものとみなして遺族基礎年金などが支給されることとなりました。船舶又は飛行機事故における死亡推定の考え方の準用です。さらに、企業年金の遺族給付金又は死亡一時金なども同様の措置が取られることになりました。

育児休業中の社会保険料免除など

1.育児休業中の社会保険料免除

 育児休業期間中の給与については、“No Work,No Pay”の原則で構わないことになります。また、この期間中は雇用保険の育児休業給付金も支給されます。育児休業制度における優遇措置の一つが、社会保険料の免除です。その内容は次のようになります。

(1)育児休業を開始したその月から、健康保険料及び厚生年金保険料の支払いが被保険者負担分、事業主負担分共に免除されます。

(2)最長で1歳6箇月に達するまでの育児休業期間に加えて、会社が独自に行う育児休業制度に準じた休業を取得した場合でも子が3歳に達するまで、社会保険料支払い免除の優遇措置が受けられます。

(3)免除期間は、育児休業等が終了するまでの全期間が含まれます。

(4)育児休業等の保険料免除期間は、保険料を支払っていたものとみなされ、健康保険による診察を受診することができ、また、将来受け取る老齢年金等の給付額も減額されることはありません。


2.厚生年金保険養育期間標準報酬特例の申出

 それでは、3歳未満の子を養育している期間の標準報酬月額はどのようになっているかを見ていきます。

 まず、育児休業等の期間は、“No Work,No Pay”の原則を適用したとしても、老齢年金額等を計算するときには、育児休業等開始前の標準報酬月額を用います。一方、保険料は、“No Work,No Pay”の原則適用の如何にかかわらず、免除されます。

 次に、育児休業等を終えて仕事に復帰した後、勤務時間短縮等を選択しているため、養育期間前の標準報酬月額よりも標準報酬月額が低下している場合です。この際には、育児休業等終了時改定を申請するわけですが、その際に「厚生年金保険養育期間標準報酬特例申出書」を年金事務所に提出して当該申出をしておくと、養育期間中の子が3歳に達するまで、老齢年金額等を計算するときには、育児休業等終了時改定を申請して引き下げられた標準報酬月額ではなく、育児休業等開始前の標準報酬月額を用います。こうすることによって、被保険者が3歳に達するまでの子を養育する期間に係る年金額の減少を阻止することができます。

 注意すべきは、この特例の適用が厚生年金保険に限ったものであり、健康保険に係る傷病手当金などについては、実際の引き下げられた標準報酬月額が使用されることです。

育児休業等終了時改定

 男性は、どうしても育児休業について他人事にになる傾向がありますが、その自戒を込めて基礎を復習します。女性からこんなことも知らないのと言われないように...。

 

1.育児休業等終了時改定とは

 被保険者が、育児・介護休業法による育児休業又は育児休業に準ずる制度による休業(以下、「育児休業等」といいます。)を終了した後、育児等を理由に報酬が低下した場合であっても随時改定の事由に該当しない場合には、次の定時決定までの間、被保険者が実際に受け取る報酬の額と標準報酬月額とが相当離れた額のままになります。この状況を回避するため、育児休業等を終了したときに被保険者の申出により事業主が「育児休業等終了時報酬月額変更届」を提出して、標準報酬月額を改定することができます。ただし、育児休業等を取得せずに復職した場合は、育児休業等終了時改定の対象にはなりません。

 

2.標準報酬月額の改定方法

 育児休業等を終了した日の翌日が属する月以降3か月間の報酬月額の平均額に基づき、4箇月目から標準報酬月額を改定します。報酬の支払基礎日数が17日以上ある月の報酬の平均額をもとに決定します。17日未満の月がある場合には、その月を除いて育児休業等終了時改定を行うことになります。ただし、3箇月間のいずれの月も支払基礎日数が17日未満の場合は、育児休業等終了時改定には該当しません。

 

3.届出及び改定通知

 事業主を経由して、「健康保険・厚生年金保険 育児休業等終了時報酬月額変更届」を年金事務所に届出します。健康保険組合加入事業所は健康保険組合に、厚生年金基金加入事業所は厚生年金基金にも届出を行います。

 育児休業等終了時改定を行ったときには、「健康保険・厚生年金保険 育児休業等終了時報酬月額改定通知書」が事業主宛てに送付されます。

 

4.随時改定との違い

   育児休業等終了時改定  随  時  改  定 
賃金の変動 固定的賃金の変動を伴わない場合でも可 固定的賃金に変動があることが必要
支払基礎日数 育児休業等終了日の翌日が属する月以降3箇月間のうち、報酬の支払基礎日数が17日未満の月を除いた月で改定 変動月以降継続した3箇月間のいずれの月も報酬の支払基礎日数が17日以上必要
従前の等級との差 従前の標準報酬月額と1等級の差であっても改定可 従前の標準報酬月額と2等級以上の差が生じた場合に改定
改訂月 育児休業等終了日の翌日が属する月から起算して4箇月目から改定 固定的賃金に変動を生じた月から起算して4箇月目から改定
届出方法 被保険者からの申出に基づき、事業主が届出る 随時改定に該当した場合、すみやかに事業主が届出る

 

5.育児休業「等」とは何か

 「1.育児休業等終了時改定とは」で定義しているように、法に基づく育児休業の他に育児休業に準ずる制度による休業を含めた概念として「育児休業等」といっています。具体的にはどういうことかというと、育児・介護休業法5条1項は、育児休業申出の要件として、労働者による1歳に満たない子の養育を上げ、同条3項で一定の条件下で1歳から1歳6箇月までの延長を認めていますが、つまりここまでが法に基づく育児休業ということです。

 ところで、会社によっては、福利厚生の一環としてさらに手厚い「育児休業に準ずる休業」を認めている場合があります。これについては、3歳未満の子の養育まで「育児休業等終了時改定」や「保険料免除」などの育児休業等の実施に伴う優遇措置を適用して差し支えないということになっています。

 ちなみに、期間の定めのある労働契約を締結しているパート従業員などの場合、次の2つの要件を両方とも満たす場合に限り、育児休業等を申し出ることができます。 (1)当該事業主に引き続き雇用された期間が1年以上である者で、 (2)その養育する子が1歳に達する日を超えて引き続き雇用されることが見込まれる者(当該子の一歳到達日から一年を経過する日までの間に、その労働契約の期間が満了し、かつ、当該労働契約の更新がないことが明らかである者を除く)

リストラなしの「年輪経営」について_その3

1.「協調力」と「注意力」を重視する経営

 伊那食品工業 代表取締役会長の塚越寛氏によれば、「経営は、いかにしてみんなの結束力を高めるかというゲーム」なのだそうです。「役員も、社員も、パートさんも、さらには取引先の方々も含めて、みんなのパワーを結束させて、一つの方向に向けさせることが経営者の務めだと思います。」と言っておられます。ここから、風通しの良い、意思の疎通が十分に行われている組織作りを重視し、「協調心」を力を結集するために不可欠のものとして重視しておられるのです。

 このような考え方から、効率だけを追い求める立場からの在宅勤務の導入及び分社化には、反対の立場を明確にされています。

 必然的に、採用においても最も重視するのは「協調力」ということになります。塚越会長は、協調力を「周りを思いやる気持ち、支え合おうという精神」と定義されます。このような気配りができる人間は、当然「日常の注意力が高いはず」ということが言えます。ところで、机上で学んだ知識は、そのままでは仕事に役に立つことはあまりありません。しかし、知識と経験が一緒になって発酵すると仕事で役に立つ「知恵」に昇華します。「同じ経験をしても、注意力がある人は、多くの知恵」を得ることができるはずなのです。

 塚越氏が成果主義を全く認めなかったのは、このあたりの考え方にあります。つまり、成果主義は、畢竟、努力も能力も見ず、結果を評価するだけです。これでは、周りを思いやる気持ち、会社全体のことを思う気持ちは育まれないので、「協調力」も「注意力」も高まらないのは自明のことだからです。

 さらに、「協調力」→「注意力」の文脈から“serendipity”という聞きなれない英単語に言及されていて、この言葉の意味するところは、「当てにしていなかった物を偶然に見つけ出す能力、いわば『掘り出し上手』」ということです。「開発能力の核心をついていると思い、大切にして」おられるそうです。研究開発部門に限らず、全ての「社員一人一人が“serendipity”を発揮することができれば、会社は宝の山」になるはずですが、“serendipity”を発揮することに繋がるのは、周りのことを思いやる「協調力」であり、その中で小さなことに気付く「注意力」であると塚越会長は考えておられるのです。


2.運命共同体論を再構築するには

 3回にわたり、伊那食品工業の塚越寛会長が上梓された経営書「年輪経営」を見てきましたが、示唆に富む内容で大いに参考になることが書いてあると思っています。

 小生自身、以前から、一般的な日本の会社は成果主義など導入すべきではなく、運命共同体的な性格は全否定されるべきではないというようなことを漠然と考えていたのですが、近年そのような傾向を強めてきております。

 そもそも我が国は、稲作農業主体の血縁・地縁で結ばれた共同体的社会、いわゆるムラ社会が長い間続いていたわけで、その伝統と文化は、あらゆる組織を形成する場合にも色濃く反映されてしかるべきでした。共同体的組織(Gemainschaft)とは、血縁・地縁をもとに自然発生的に成立した組織であり、そこには、「理念」なり、「行動指針」などといったことを改めて持ち出すまでもなく、「常識」的な行動指針なり、倫理観があったはずです。すなわち、やるべきことは少しでも多くの収穫を得て構成員全員を食わせることに決まっているわけですから、田植えの時期や稲刈りの時期に協調しないで山菜狩りに出かけることは許されるわけがないですし、リストラ(=村八分)は、その者にとっては飢餓に直結しますし、共同体にとっては労働力の喪失につながりますから、軽々には行ってはならない最後の手段であったはずです。

 そういう伝統と文化に根ざした意識が、欧米の文化では典型的な目的的組織(Gesellscaft)であるはずの株式会社を形成する際にも色濃く反映されてきたのはごく自然なことだったのだろうと想像できるのです。ここでは、「解雇権濫用法理」などは、あたりまえ、常識の範疇でしょうし、戦前はそうではなかったということを強調する意見もありますが、「年功序列」や「長期雇用」も伝統と文化に親和性の高い仕組みだったと言えます。

 敗戦後、欧米流の「個人主義」が強調され、米国式民主主義や経営がいくら流入してきても、「飢餓状態からの脱出」ないしは「物質的な豊かさ追求」など目に見える目標がある時代には、逆説的ですが、日本人は共同体的組織の組織人であることを完全には捨てることはなかったように思います。

 ところが、バブル経済前後の物質的豊かさを極めた頃から、様相は変化し始めます。共同体的組織においては、常識としてその組織の目標を何とはなしに把握しているものなのですが、物質的な豊かさの達成及びその後のバブルの崩壊を経て、日本の会社はこの期に及んで共同体としての「常識」を喪失してしまい、その結果、経営は村八分をあたりまえのこととし、その反動として、従業員は個人主義と保身に走るようになります。

 このような状態を救済する手段は、成果主義などであるはずはなく、伝統と文化に根付いた組織の再構築の中にこそそれがあると小生は考えるようになりました。そして、誰の目にも明らかな物質的な目標が喪失した現代において、組織の構成員がもち得る目標とは何かと言えば、それは良く生きるということ、言い換えれば「人生には意味がある」という概念です。そして、「人生の意味」は実は「外部」にあるということです。つまり、人生の意味は個人主義で達成されるようなものでは決してなく、常に周囲の人との関係の中から生まれるということです。つまり、個人主義とは対極のところに人生の意味が存在するということです。であるとすれば、人生の意味を見いだせる最も手近な場所として共同体の意義をもう一度全ての構成員が認識しなおすことで、我が国固有の伝統と文化に根ざした組織の再構築ができるのではないでしょうか。

リストラなしの「年輪経営」について_その2

 伊那食品工業における塚越寛会長の会社の人事制度、商品開発又は資本政策に対する考え方は、流行に左右されないとてもユニークなもので、今どきこれで本当にやっていけるのだろうかと思われることもあります。しかし、その一つ一つだけをとって論じることは意味のないことであり、これらは互いに関連しあった事柄であり、その根底にあるのは「会社はまず社員を幸せにするためにあると考えています。売上げを増やすのも、利益を上げるのも、社員を幸せにするための手段にすぎません。」という思想です。そして、社員との信頼関係に基づく経営を行うことができるために、社員全員が「正しい心」を持てるように徹底して教育を行うと言っておられます。そのことを踏まえた上で、人事制度、商品開発又は資本政策に関するユニークな考え方を紹介します。


1.年功序列を維持する

 「会社の存在理由は、まず社員を幸せにすること」と考えている塚越氏は、人件費をコストとはみなしません。会社の目的そのものをどうして費用と考えることができるのか、という訳です。利益を上げるためには、売り上げを増やすか費用を減らすしかありません。従来リストラには消極的だった我が国においても、今日「選択と集中」の美名の下に行われる合理化に代表されるような人件費削減が横行するようになりました。こういった風潮を塚越氏は否定します。「例えば、兄弟とか、親しい友人で事業を起こしたとします。このときに、人件費が少なければ少ないほどいいと思うでしょうか。そんなことはないはずです。みんなで一生懸命に働いて、より多くの報酬を得て幸せになることは、事業を起こした目的の一つなのですから。」

 また、伊那食品工業は、年功序列型の給与体系をとっています。抜擢人事は一部に過ぎず、能力に大差がない場合は、年長の社員、勤続年数の長い社員に高い給料が支払われます。つまり、成果主義や能力給といった賃金制度を否定しています。

 その理由の第一は、会社を家族のような運命共同体と考えているからです。つまり、ドイツの社会学者テンニース流に言えば、会社もゲマインシャフト足り得ると言っているのです。特定の個人を特別に評価する成果主義や能力給を導入すると、目先に表れる数字だけに関心が行ってしまい、社員同士の協調よりも、自分の成績が大事になることにより、社内の「和」が損なわれると考えているのです。

 第二の理由は、社員のライフサイクルを考慮するということです。一般的な家族構成を考えると、子供の教育費がかかる、40代、50代の社員の出費がかさむ傾向にあります。社員の暮らしぶりをも考慮して、賃金制度は40代、50代になってその子供たちにしっかりした教育を受けさせることができるような年功序列の仕組みにしておきたいということのようです。


2.マーケット・リサーチに依存しない

 伊那食品工業は、「新技術や新商品を研究開発して市場を創造し、高いシェアを維持する」ことこそが利益の源泉であると考え、研究開発部門に社員の1割以上を当てています。故Steve Jobs氏のApple社がなぜこれほどの評価を受けているのかといえば、まさに新技術や新商品の研究開発を通じて市場を創造し、高いシェアを維持することを世界規模でやって見せた会社であったからであり、最近のSonyが全く評価されなくなったのも、かつて同社の専売特許のようだったそれが、全くと言っていいほどできなくなってしまったからなのでしょう。

 面白いのは、同社が商品開発において、マーケット・リサーチをほとんど行わないという点です。コピーライティングのコツなどで良く出てくる「大衆に受けそうな」とか「「読んでもらえそうな」という発想とは対極に位置すると思われます。つまり、「世の中にあろうがなかろうが、世の中で売れていようが売れていまいが関係なく、自分たちがいいと思うものをつくろう」という姿勢を貫くというのです。このときに、塚越氏の頭の中には、「進歩軸」と「トレンド軸」という考えがあって、いい商品とは「人間があるべき姿」を追っている商品、人間の進歩していく方向に沿った商品、つまり、進歩軸に沿った商品と言っておられるのです。もちろん、その時のトレンド軸にもある程度は沿っていることが望ましいのだと思われますが、トレンド軸にそっているだけの商品は、一時的に売れてもすぐに消えていく商品です。


3.株式上場はしない

 塚越会長は、莫大な資産や巨額の設備投資を可能にする資金が得られるなどの長所がある反面、意思に反した経営を強いられることになるという考えから、株式上場を行わないことに決めています。社員の幸せよりも株主の利益を優先させるために、社員の給料を減らし株主への配当を重視すること、その先にあるリストラなどは、到底是認できることではないからです。

 海外進出についても、同社は良質な海藻を求めて30年以上、海外の会社に技術指導を提供しつつ取引を行ってきています。ここでも最も大切なことは、「信用」であるとしておられ、中国への進出を見合わせている理由として、唯物論の社会主義国には「信用」という概念が感じられなかったからと指摘しておられます。塚越氏は、商売は「信用」がないと成立しないと考えておられ、「商品というモノ」の後ろには、それを生産する人、販売する人たちがいて、その人々が「信用」で結びついていることが重要だという当たり前ですがとても重要な指摘をしておられます。